第22回哲学カフェ活動報告 テーマ:「遊び」とは?

○日時:2022年10月15日(土)13:00~14:00

○場所:「Cafe伊太利庵堺東店」

○参加者
淡野(40代男性)

Mさん(20代男性)

Tさん(30代男性)

ウルフさん(50代男性)

Fさん(70代男性)

○テーマ:「遊び」とは?

●「遊び」を巡る議論

・古代において、「遊び」が直接のテーマになることは稀でしたが、労働から解放された自由な活動こそが哲学の基盤だということは共有されていました。実際、中世のスコラ哲学の語源は、古代ギリシア語の余暇を意味する「スコレー」です。ちなみに、このスコレーが学校や学派を意味する「スクール」の語源です。

・近代になって、ドイツ詩人フリードリヒ・フォン・シラーが理性と感性を結合するものとして「遊び」を論じて以降、哲学を含む人文学で「遊び」がテーマとして扱われるようになりました。

・既に古典となっているホイジンガの「ホモ・ルーデンス」、カイヨワの「遊びと人間」等が有名なので、この辺りの議論を参照枠とするのがやりやすいかもしれません。

・では、皆さんは「遊び」について、どのように論じてみたいでしょうか?

●「仕事」と「遊び」の対比

・私は「遊び」について考えるなら、「仕事」と対比してみるのが良いと思います。「仕事」は「金を稼ぐためにやるもの」で、「遊び」は「利益なしにやるもの」みたいな対比です。

・そういう対比を言うならば、私は「仕事」は「誰かにやらされるもの」で、「遊び」は「自分がしたいからするもの」だと思います。

・「報酬の有無」や「強制性⇔自発性」という風にもまとめられそうですね。他に何かありませんか?

・「仕事」であっても、自分で好きにできる範囲があったり、自分の得意なことをやるのであったりすれば、それなりに面白いというか楽しくなるので、「遊び」に近くなると思います。

・「裁量の範囲」や「能力発揮の機会」なんかが関係してそうですね。それでは、挙げられた内容を参考に、幾つかの論点を整理しましょう。

●「目的」と「手段」

・今までの流れからすると、「遊び」が成立するには幾つか条件があると言えそうです。

・例えば、「報酬の有無」や「強制性⇔自発性」ということから考えると、何かの手段としてではなく、「遊びそのものを目的とする」という「自己目的性」が重要な条件になっていそうですね。

・「何をするか」という活動の中身ではなく、「どのようにするか」という態度が重要になってくると解釈しても良いですか?

・そういう風にも表現できると思います。

・十分な資産があって、働く必要がないにも関わらず、それでも仕事をするなら、それは「仕事」ではなく、「遊び」と何も変わらないでしょう。

●「遊び」と「楽しさ」

・では、「裁量の範囲」や「能力発揮の機会」はどういう風に整理できますか?

・哲学ではなく、心理学の議論ですが、「最適覚醒」説というのが関係していると思います。「遊びの楽しさ」というのは、過小刺激である退屈と過剰刺激である過緊張の中間である適切な刺激範囲、所謂「最適覚醒」の範囲で感じられるという理論です。

・チクセントミハイの提唱する「フロー体験」みたいなものでしょうか?

・適切な課題に没頭する体験を論じているので、ほぼ同じことを別の用語で表現していると言っていいと思います。

・そうなると、「仕事」であっても、やり方や向き合う態度によっては「楽しい」ものになると言えるのではないでしょうか?

・そういう意味では、仕事と遊び、あるいは労働と余暇と呼んでも同じでしょうが、単純な反対概念という訳ではなさそうですね。

●「強制性」と「自発性」

・話を戻して申し訳ありませんが、「強制性⇔自発性」については、別の論点があると思います。「仕事」は簡単にやめる訳にはいきませんが、「遊び」は参加も離脱も自由であるという点です。

・今の話を聞いて、ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」で述べられる「駱駝→獅子→幼子」という「精神の三段階の変化」を連想しましたが、何か関連していないでしょうか?

・「駱駝」が「汝なすべし」、「獅子」が「我欲す」を象徴しているそうですから、今論じている「強制性」が「駱駝」の段階、「自発性」が「獅子」の段階に対応していると言えるでしょう。「幼子」の段階は、この「強制性⇔自発性」という二項対立を超越した境地を指していると私は解釈しています。

・この「労働」が苦役で、それから解放されるのが「自由」みたいな前提で「遊び」を論じるのは正直違和感があるのですが、それは何故でしょうか?

・この手の西洋哲学系の議論は、暗黙の前提としてキリスト教の「楽園追放」神話における「労働=神罰としての苦役」という観点があるので、非キリスト教徒の私たちからするとそのまま当てはまらない部分が多いと思います。

・「仕事」で何かを達成するのは楽しい、誰かの役に立つのは嬉しい、という素朴な感情は普通にありますから、「文化の違い」というのは大きいでしょう。

●「ゲーム」の条件:「目的」と「規則」

・すみません。話の流れからずれるかもしれないですが、私は言語学に興味があるので、「遊び」を「コード」という観点から考えてみたいですが、よろしいでしょうか?

・「コード」だと分かりにくいので、「遊び」に合わせて「規則」としましょう。バーナード・スーツというカナダの哲学者が「キリギリスの哲学」というゲーム哲学の古典の議論を参照します。

・彼によると、「遊び」の一種である「ゲーム」は、「目的」と「規則」で構成されています。そして、この「目的」と「規則」は究極的には無根拠というか、恣意的に決められています。

・例えば、「ゴミをゴミ箱に捨てる」という行為は、ただの日常的な活動です。ところが、「ゴミ箱から一定の距離にある白線を超えてはならない」という「規則」を設定して、「ゴミをゴミ箱に捨てる」という「目的」に制限を加えると、これはある種の「ゲーム」として「遊び」になります。

・それは面白いですね。つまり、任意に「規則」と「目的」という「コード」を設定すれば、あらゆることを「ゲーム」に変えられるということですから。

●「遊び」の根源性

・逆に、人間のあらゆる文化的行為は、究極的には「遊び」に過ぎないとも言えないでしょうか? 

・ホイジンガが「ホモ・ルーデンス」で主張する「遊び一元論」は、正にそういう議論だと思います。彼は、「遊びの中で全ての文化が生まれる」という趣旨の主張をしていますから。また、先程のスーツは、「キリギリスの哲学」で「人生は無自覚なゲームプレイと言えるかどうか?」という問いを提起しています。皆さんはどう思われますか?

・私は賛同します。人間の文化は、恣意的な記号体系でしかないと考えていますから。

・私も消極的賛成の立場です。世界にも人間にも「究極的には目的も意味もない」という「ニヒリズム」が現代社会の暗黙の前提ですし、今更、「新しい物語」を受け入れられるとも思えませんから。

・皆さん、難しく考えすぎだと思います。人間と言うのは、動物の一種で、何かを達成したら、それを気持ちよく感じるというだけのことです。自然や社会という自分の環境に適応して、楽しくやれば良いだけなのに、人生の意味や目的とか有りもしないものを求めるから袋小路に嵌るだけでしょう。

○今後の方針

・次回開催予定:11月26日(土)13:00~14:00

・次回テーマ:「芸術」とは?

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