第21回哲学カフェ活動報告 テーマ:「承認」とは?

○日時:2022年9月17日(土)13:00~14:00

○場所:「Cafe伊太利庵堺東店」

○参加者
淡野(40代男性)

Tさん(30代男性)

Kさん(30代女性)

ウルフさん(50代男性)

Fさん(70代男性)

○テーマ:「承認」とは?

●「承認」を巡る議論

・現在、「承認」という言葉や概念は心理学においてよく使われています。しかし、哲学においても、社会哲学の分野では「承認論」という議論が行われています。

・この「承認論」は、ドイツ観念論で有名なヘーゲルの議論を起源とするのが通例となっています。

・一つは、「精神現象学」における自己意識の弁証法的展開の議論を参考に、自己の自立と他者の承認、あるいは主人と奴隷の関係性等の議論を参照に、「承認の闘争」等が議論されています。

・もう一つは、「法の哲学」における人倫の三類型としての家族、市民社会、国家を参照軸として、愛、連帯、尊厳といった承認の類型論が議論されています。

・では、皆さんはどういう切り口で「承認」を扱ってみたいでしょうか?

●「承認」と「価値観」

・私は「承認」に関してだと、「承認」とルールや価値観の関係に興味があります。何かを「承認する」には、その前提として何らかの価値基準が必要だと考えるからです。

・私も「承認」の前提には、「コード」のようなものがあると考えます。言語の文法のように、「承認する/しない」を可能にする規則なようなものがあるのではないでしょうか?

・「承認」の対象が何であれ、「肯定的に評価する」という意味を含んでいると考えられるため、何らかの評価基準があるのは確実でしょう。では、それはどのような評価基準だと考えますか?

●「恣意性」と「合理性」

・社会や文化によって、何を肯定的に評価するかは千差万別です。その意味で、その評価基準は恣意的なものだと私は思います。

・「承認の対象」に多様性があるのは事実でしょうが、完全に恣意的なものとするのは無理があると思います。規則や価値基準にも一定の合理性があると考えるべきだと思います。完全に恣意的で不合理な規則や価値基準を持つ集団や共同体には持続可能性がなく、競争その他の理由で生き残れないでしょうから。

・「進化倫理学」等で議論されている倫理や価値観等の集団的適応性と関係してくる内容ですね。私も「承認」の前提となる価値観や規則は、それが必要とされる合理性があるという立場です。ただ、その合理性は事後的に指摘可能になるだけで、事前に決定したり、当事者に分かったりするものではないと思います。

・他に何かありますか?

●「承認」と「関係性」

・私は「承認」というのは、「承認される」側が上、「承認する」側が下という関係性を受け入れることだと思います。その上下関係を受け入れることで、関係性なり集団なりに所属できるようになるような。

・ヘーゲルが「精神現象学」で「主人と奴隷の弁証法」として論じ、ホネットが「承認をめぐる闘争」という形で「承認論」として議論している大きなテーマの一つですね。他の皆さんはどう思いますか?

・「承認」が「承認する/される」という非対称的な構造を持つのはその通りだと思います。それが単純な上下関係と言えるかどうかは、関係性にもよるとは思いますが。

・私は「承認」が必ずしも非対照的な上下関係になるとは考えません。「相互承認」のような対等関係もあると思います。

●「自己承認」の類型

・素朴な疑問なのですが、「承認」というのは他者を必要とするものなのでしょうか?私には他者の承認を必要としていないように見える人が居るように思います。

・「自己承認」について、ヘーゲルは「精神現象学」では「自己意識の自由」という形で三つの類型で論じていますね。

・一つ目は「ストア主義」で、「他者承認」を求める「関係性全体」を拒否し、関係性から解放された「自己の内的自由」を自分で承認する立場です。

・二つ目は「懐疑主義」で、「他者承認」の前提となる「価値観全体」を拒否し、価値観全体を懐疑できる「自己の価値観全体に対する優位」を自分で承認する立場です。

・三つめは「不幸の意識」で、「特定の価値観」を絶対視し、その価値観に基づいて他の価値観及びそれに基づく承認を否定する「自己が同一化した価値観の優位」を自分で承認する立場です。

・何れの立場であれ、その立場に対する自己確信が強固であれば、他者承認がなくとも自己承認だけで自足できる可能性は高いです。ただ、私の見解からすると、ただの狂信者でしかないので、「他者承認」を全く必要としないというのもどうかと思います。

●「他者承認」の類型

・全く必要としないというのは問題だと思いますが、他者承認に拘り過ぎるのもそれはそれで問題だと思います。例えば、有名になりたいとか、何かで賞を獲りたいとか、健全な努力の動機になる分には健全だと言えますが、そのために全てを投げうって一つのことに専念するというのも、度が過ぎれば不健全ではないでしょうか?

・社会からの承認を求めすぎて、職場や家族を顧みないというのものバランスを欠いたものでしょう。

・その意味で、「他者承認」にも種類があるように思いますが、何か参照例はありますか?

・ホネットは、ヘーゲルの「法の哲学」における人倫の三類型、家族、市民社会、国家を参考に、承認の類型を論じています。

・一つ目は愛で、親和的承認と呼ぶ人も居ます。家族や友人等、親しい人からの「存在そのもの」への承認です。

・二つ目は連帯で、集団的承認と呼ぶ人も居ます。所属する集団や組織において、「価値ある行為」への承認です。

・三つめは尊厳で、一般的承認と呼ぶ人も居ます。人間が人間である限りにおいて、「人格/人権」への承認です。

・心理学で重視するのが一つ目の愛、法学や社会哲学等が扱うのが三つ目の尊厳、社会学や社会心理学等に関係するのが二つ目の連帯です。私の考えでは、この三つを自分なりに上手く均衡して生きるのが賢明な生き方でしょうが、どれをより重視するかはその人の価値観次第とも言えます。

・私は他者承認よりも、自己承認重視ですが、これもありでしょうか?

・他者承認の中のバランスも重要ですが、自己承認と他者承認のバランスも大事だと思います。ただ、これも個々人で正解は違うと思います。

○今後の方針

・次回開催予定:10月15日(土)13:00~14:00

・次回テーマ:「遊び」とは?

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