第20回哲学カフェ活動報告 テーマ:「嫉妬」とは?

○日時:2022年8月20日(土)13:00~14:00

○場所:「Cafe伊太利庵堺東店」

○参加者
淡野(40代男性)

Hさん(20代男性)

Tさん(30代男性)

Kさん(30代女性)

ウルフさん(50代男性)

○テーマ:「嫉妬」とは?

●「嫉妬」を巡る議論

・哲学において、体系的に感情について議論したのはアリストテレスです。彼は「弁論術」において色々な感情について論じています。彼によれば、「妬み」とは「他人の善についての悲しみ」と定義されます。

・話を分かりやすくするために、彼の議論を私なりに単純化するとこういうことです。普通、自分に良いことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しみます。そして、自分の家族や友人に良いことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しみます。この親しい人に悪いことがあれば起こる悲しみを「憐み」と定義します。そして、「嫉み」というのはこの反対、親しくない人に良いことがあれば起こる悲しみだということです。

・この定義は直観的に分かりやすく、色々と使いやすいので、アリストテレスのこの「嫉み」の定義は、その後の哲学において強い影響力を持ちました。中世のトマス・アクィナスは「悪について」でこの定義を引用して「嫉妬」について論じています。近代のデカルトは「情念論」で直接の引用こそしていませんが、ほぼ同様の議論をしています。

・「嫉妬」と言えば、ニーチェの「ルサンチマン」が有名です。しかし、彼の議論は「嫉妬」そのものと言うよりは、敵に対しては、良いことがあれば悲しみ、悪いことがあれば喜ぶという「感情の転倒」を前提に、倒錯した価値観が創設されたという仮説とその仮説に基づいた道徳の歴史が主題です。その意味で、「嫉妬」そのものを扱っているとは言い難いというのが私の印象です。

・では、皆さんはどういう切り口で「嫉妬」を扱ってみたいでしょうか?

●「競争心」と「嫉妬」

・私は「嫉妬」は人間の成長や文化の発展にとって重要な感情だと考えています。何故なら、人が努力したり、他人と違うことをやってみようとしたりするのは、嫉妬が原動力になっているからです。

・アドラーの「劣等感」もそういう考え方に違いと思います。「劣等感」を自己成長の原動力とする考え方ですね。

・実は、アリストテレスも「弁論術」で「競争心」をほぼ同じようなものとして論じています。「他者の善を見て、自分も同様の善を追究する」という定義です。

・そして、現代の心理学でも、「嫉妬」を自己成長の原動力とする「良い嫉妬」と、他者を攻撃する原因となる「悪い嫉妬」の二つに区別する議論もあります。

・その二つの違いは、何故起こるのでしょうか?

・論者によって意見が違うので、これといった定説はないです。逆に、皆さんは何が原因だと思うか考えてみてください。

●「準拠他者」と「相対的剥奪」

・私の素朴な考えですが、「嫉妬」は自分と似たような人にしか抱けないと思います。例えば、同じ学校の同じ野球部員には嫉妬するけど、イチローは隔絶していて嫉妬は抱けないみたいな。

・そこは重要な論点だと思います。社会学では「準拠集団」・「準拠他者」という、比較基準がないと嫉妬も不満も生じないと議論されています。また、その延長で「相対的剥奪」ということも言われています。「現実の状態と期待している状態との格差」が嫉妬や不満の原因と言う仮説ですね。これは必ずしも他者との比較だけでなく、過去の自分の状態との比較もあります。ただ、何れにせよ人間の感情は相対評価で決まり、絶対評価ではないということです。

・SNSが発達したせいで、本来なら無縁だった人たちの華麗な活躍や生活を見て不満や不安を抱えてしまうという記事がありましたね。

●「平等」と「身分/階級」

・そういう意味では「平等」というのも重要だと思います。実際はともかくとして、皆が平等だと建前が、逆に「何故、自分も彼らと同じようになれないんだろう」と「嫉妬」や不満を煽ってしまうという要因は大きいと思います

・昔は、身分とか階級とかがハッキリしていて、子供の時から「自分たちとは違う人間だ」と思うようになっていたので、そういう「嫉妬」も不満も抱かなかったと思います。

・その意味で、「平等」意識の浸透と情報技術の発展、特にSNSの普及は功罪両面が大きいと言えそうですね。

・今までは知らなかったから気にならなかったけど、SNSで簡単に知ることができて、頻繁に目にするようになることで身近に感じるようになった、「自分たちとは違う」とは思えなくなったというのはあると思います。

・他に意見はありませんか?

●「健康」と「衰弱」

・私の感覚だと、その人が「競争心」に向かうか、「嫉妬」に走るかは、ある種の選択のような感じです。

・その選択の原因は何だと思いますか?

・その時のコンディションが大きいと思います。良好な時、特に自分が絶好調だと「競争心」を選べますが、体調や精神状態が思わしくない時は「嫉妬」してしまうように思います。

・それも面白い論点ですね。何らかの「負荷」が掛かっていると、正常な判断ができなくて、健全な選択ができないというのは心理学でも指摘されています。

・逆に、凄く健康な人は、全く嫉妬しないということになるのでしょうか?

●「無感覚」と「悟り」

・流石にそれは無理ではないかと思います。健康であれば、嫉妬の感情は感じるけれども、それに囚われないで、それを競争心や自己成長の原動力にできるというだけだと思います。

・それに、全く何も感じないというのは、アリストテレスの議論では、「無感覚」という逆方向の悪徳ですね。彼は両極端の悪徳の間の何処かに、適切な徳があると考えました。

・勿論、そういう「無感覚」を理想とする考えもあります。ストア哲学は「アパテイア」、即ち「感情に動揺しない自己統御」を理想として掲げました。また、仏教の「悟り」をそういう「無執着」として解釈する宗派もあります。

○今後の方針

・次回開催予定:9月17日(土)13:00~14:00

・次回テーマ:「承認」とは?

コメント

このブログの人気の投稿

第47回南大阪哲学カフェ 参加者募集 テーマ:「思い込み」とは?

第46回南大阪哲学カフェ 参加者募集 テーマ:「祭り」とは?

第49回南大阪哲学カフェ 参加者募集 テーマ:妥協とは?