第19回哲学カフェ活動報告 テーマ:「共感」とは?

○日時:2022年7月9日(土)13:00~14:00

○場所:「Cafe伊太利庵堺東店」

○参加者
淡野(40代男性)

Mさん(20代男性)

TKさん(30代男性)

TNさん(30代男性)

Yさん(30代女性)

ウルフさん(50代男性)

○テーマ:「共感」とは?

●「共感」を巡る議論

・哲学においては、古代から「主知主義」的な傾向、「思考」や「知性」を重視し、「感情」や「欲望」を低いものとして扱うことが普通でした。例えば、プラトンは「国家」において、人間の魂を「知性」、「気概」、「欲望」の三つに区分し、「知性」を最も重視しました。この傾向は、古代ローマでも同様で、ストア派は欲望や感情に乱されない「不動心」(アパテイア)を理想としました。近代に入っても、この伝統は「理性」を重視する傾向として続きます。

・この傾向に異を唱えた哲学者の代表格は、「理性は情念の奴隷に過ぎない」と主張したデイヴィッド・ヒュームです。そして、本日のテーマである「共感」を道徳の基盤として重視したのは「道徳感情論」を著したアダム・スミスです。皆さんには、「国富論」での市場の調整作用を重視した「神の見えざる手」の方が有名かもしれませんが。

・では、皆さんはどういう切り口で「共感」を扱ってみたいでしょうか?

●「情動」と「認知」

・私は「共感」にも種類があると思います。相手に感情移入して感情を共有するような共感と、感情というよりは経験や想像力によって相手の立場や感情を考える共感に大別できるのではないでしょうか。

・「共感」に種類があるというのは私も同感です。相手と一体化するものと、自分と相手に一線を引いたものとがあるように思います。

・心理学では、感情移入や一体化による共感を「情動的共感」、想像や思考による共感を「認知的共感」と呼んでいます。問題は、論者によって用語の混乱があることです。ある論者は、「情動的共感」をエンパシー、「認知的共感」をシンパシーとするのに、別の論者は逆だとする場合もあります。さらに、両者を区別しない論者もいて、議論が混乱しているなという印象ですね。

・私の経験からですが、医療や介護等の職についていると、「情動的共感」はどんどん摩耗して、職業的な「認知的共感」が主になると思います。「情動的共感」が強すぎると、「共感疲労」のような状態になって仕事が続けられなくなることも多いでしょうし。

・「情動的共感」は「認知的共感」よりも範囲が狭く、必ずしも合理的でないという点を指摘する論者もいます。例えば、寄付を募る心理学の実験だと、同じ病気治療への寄付でも、「この病気に苦しむ人が年間何万人もいます」と提示するよりも、具体的に「〇〇に住む5歳の少女がこの病気で苦しんでいて、新薬の開発を待っている」と少女の写真と一緒に提示した方が寄付額が増えるそうです。

●「素養」と「経験」

・今までの話の流れからすると、「情動的共感」はより原始的というか本能に近いもので、「認知的共感」は訓練等によって培うものみたいな印象があるのですが、その点についてはどうなんでしょうか?

・私は、「共感」というのは「徳」の一種だと思っていて、「色々な経験を積むことで様々な人に共感できるようになる」というようなものだと考えています。

・「情動的共感」が感情の基本機能の一種であり、「認知的共感」は思考の拡張機能の一種ではないかと思っています。その意味で、「情動的共感」は、成長すればある程度は誰でもできるようになりますが、「認知的共感」は、環境や訓練がないと身につかないと思います。

・私も「共感」は素養の面が大きく出ると思います。私は感情の起伏が少ない性質なので、「情動的共感」があまり得意ではないです。成長するに従って「認知的共感」はある程度できるようになったとは思いますが。

●「承認」と「否認」

・そういう性質の違いだけでなく、「共感する」と「共感される」という違いもあるように思います。例えば、SNSで「いいね」を貰うと嬉しくて、「いいね」を貰いやすい投稿ばかりするようになるというような。

・「共感される」側の視点に立つならば、仰るような「承認される」と心地良いというのと、逆に「共感されない」どころか、自分の行為や感情を「否認される」のが不安だというのもあるでしょう。

・それは、所謂、「同調圧力」という奴ですか?

・恐らく、「同調圧力」という現象の大きな要因の一つが「共感」の裏返しである「否認」に対する恐怖や不安だというのは、その通りだと思います。

●「共感」の濫用

・その意味では、「弱者への共感の強要」みたいな問題もあるのではないでしょうか?「可哀そうな弱者に共感しないなんて、貴方は酷い!」みたいな事例を、SNS等でもよく見かけるのですが?

・「ポリティカル・コレクトネスの強制」とかも、そういう現象の一種だと思います。実際、欧米では「Victimhood Culture」(犠牲者文化)とか「Woke」(覚醒)とか、「弱者への共感」と「政治的正しさ」を濫用することへの批判が出てきています。

・「動物の権利」とかもそういう文脈で理解できますか?

・「動物の権利/福祉」について言うならば、一応は、功利主義における「道徳的対象」の拡張を理論的基盤にしています。ただ、実際の運動の担い手、過激な動物愛護団体や菜食主義運動が、動物実験を実施している製薬会社や食肉業者を攻撃している事例を見ると、動物に対する「情動的共感」が暴走していると言わざるを得ないですね。そういう人達は、動物に対しては過剰なまでに共感しますが、動物実験で助かる人や食肉業界で生計を立てている人たちには非常に冷淡ですから。

・「情動的共感」の誘導という意味でなら、カルトや自己啓発セミナー等の勧誘等もその典型的事例だと思います。カウンセリング技法において「共感」は基礎技術なので、それらを学んで悪用する人は大勢居ます。

・「カルトの定義」において、その内容ではなく、「態度こそが問題」とされるのも、「情動的共感」の誘導が組織的に実践されているかどうかという点が一つの基準なのでしょうね。

○今後の方針

・次回開催予定:8月20日(土)13:00~14:00

・次回テーマ:「嫉妬」とは?

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