第16回哲学カフェ活動報告 テーマ:「反出生主義」とは?

○日時:2022年3月19日(土)13:00~14:00

○場所:オンライン開催

○参加者
淡野(40代男性)

Mさん(20代男性)

Tさん(30代男性)

Kさん(30代女性)

ウルフさん(50代男性)

○テーマ:「反出生主義」とは?

●「反出生」を巡る議論

・「反出生」ということについて、古代から色々と議論されてきました。例えば、古代ギリシアにおいて、「人間にとって最善とは何か?」という問いに対して、酒と陶酔の神ディオニュソスの従者が「最善は生まれてこないこと。次善は生まれて間もなく死ぬこと」と回答したという逸話が有名です。

・古代インドにおいては、「輪廻」からの「解脱」、即ち「二度と生まれてこないこと」が様々な宗教や哲学の「至上目的」の一つとされていました。よく誤解されていますが、仏教の四苦、「生老病死」の「生」は「生きること」ではなく、「生まれること」が苦しみだという概念です。

・西洋に目を向ければ、「悪神による世界創造」という神話に基づき、現世や現世に生まれることを「牢獄に囚われる」ことと同じと見なしたグノーシス主義が代表例です。勿論、「原罪」を強調し、現世での生活を「原罪」に対する罰としての苦役と見なすキリスト教神学も、私からすると同じような発想だと感じます。

・では、皆さんはどういう切り口で「反出生」を扱ってみたいでしょうか?

●「反出生」と「誕生害悪」論

・そもそも私が「反出生主義」に興味を持ったのは、私たちの素朴な感覚と真逆な主張をしていると感じたからです。普通、私たちは生きていることは良いことだと考えていますし、生まれることはお祝いすべきことだと素朴に感じているからです。

・私が「反出生主義」の議論を面白いと感じるのも同じです。私たちの素朴な直観に反する結論を、「快楽」を「善」、「苦痛」を「悪」とする功利主義的な倫理から出発して導き出すからです。

・哲学的な議論としては、仮に功利主義的な倫理を公理として受け入れたとしても、必ずしも「反出生主義」が正しいとはならないと私は考えます。「反出生主義」の代表とされるベネターは、功利主義の原理に続いて、「快楽も苦痛も感じない不在の方が存在よりも良い」と主張しています。しかし、古典的な功利主義は、「最大多数の最大幸福」という「快楽の最大化」を目指すもので、「誕生」そのものを「害悪」とは考えません。ベネターの議論は、「快楽の最大化」ではなく、「苦痛の最小化」を目指す「負の功利主義」とでも呼ぶべき考えです。さらに、苦痛を一切感じない「主体の不在」を、苦痛を少しでも感じるリスクのある「主体の存在」よりも高く評価するという暗黙の前提を追加しています。

・私はベネターの本は読んでいないですが、解説本を読んで似たようなことを考えました。ベネターの議論は、「少しでも苦痛を感じるリスクがあるなら、生まれてくるに値しない」という主張で、私としては潔癖症過ぎるという印象です。

・私はその人の議論は知りませんが、話を聞いている限り、論理としては面白いが、苦痛と快楽を分けられると考えている時点で誤った前提の議論だなと感じます。

●「反出産」と「危害原理」

・皆さん、「反出生」、所謂「誕生害悪」論について、論理としては面白いが、そのまま受け入れるのは難しいということですね。では、「反出生主義」のもう一つの議論である、「反出産」あるいは「段階的人類絶滅」論についてはどうでしょうか?

・現代日本では、こちらの議論の方が難しいと思います。出産はお祝いするべきことですが、義務ではないとするのが一般的ですので。それに、「生まれてきたら酷い境遇になるのが分かっているなら産むべきではない」というのは素朴な感情として共感しやすい考え方ですから。

・確かに、「他者に不要な苦痛を与えてはならない」という「危害原理」を前提とするなら、「反出産」の方が反駁するのは難しいと私は思います。ただ、ベネターが主張するように、あらゆる出産に反対するとか、段階的に人類は絶滅するべきだというのは、余りにも過激な主張だと思いますが。

・では、ベネターの議論を反駁するとしたら、どのように言うべきでしょうか?

●「共同体」と「倫理」

・一つの方向性としては、共同体や人類の存続を義務や善とすることでしょう。「反出生」にしろ「反出産」にしろ、個人の自由や権利を過剰に認めている、言い換えるなら、権利や自由の濫用だとする考え方です。

・私はそもそも「倫理」や「道徳」というのは「共同体」を運営するためのルールだという立場ですから、共同体の存続を否定するものは、端的に「倫理」でも「道徳」でもないと考えます。その意味では、功利主義的な原理だけを「倫理」や「道徳」の基礎と考えるのが間違いだと思います。

・そういう意味では、私は「危害原理」の適用範囲の誤用だと考えます。「動物の権利」系の議論もそうですが、「倫理」や「道徳」は「共同体の成員」までが適用範囲です。動物や未来世代等、適用範囲を安易に拡大することに疑問を感じます。

●「功利主義」への疑問

・前にも述べた通り、私は快楽と苦痛を分けられる、それを前提として議論を組み立てることそのものを疑っています。苦痛と快楽は繋がっていて、切り離して考えられないというのが私の考えです。

・私は功利主義の原理を認めるとしても、「快楽や苦痛の質」をどう考えるのかとか、「快楽や苦痛の量をどう配分するのか」とかの議論があり、ベネターの議論をそのまますべて正しいとするのは無理だと思います。

・私はカントの義務論に近い立場なので、そもそも功利主義の快楽や苦痛を善悪の基盤とする考えそのものに疑問を感じています。

・つまり、皆さん、ベネターの結論である「反出生」や「反出産」に異論があるだけでなく、そもそもの議論の前提である功利主義的な原理そのものに疑問を感じるということですね。

○今後の方針

・次回開催予定:4月23日(土)13:00~14:00

・次回テーマ:「責任」とは?

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