第15回哲学カフェ活動報告 テーマ:「健康」とは?

○日時:2022年2月19日(土)13:00~14:00

○場所:オンライン開催

○参加者
淡野(40代男性)

Mさん(20代男性)

Tさん(30代男性)

Kさん(30代女性)

ウルフさん(50代男性)

○テーマ:「健康」とは?

●「健康」を巡る議論

・哲学においては、「健康」ということについて、色々な切り口がありますが、現代においては余り中心のテーマではなく、医学の哲学や生物学の哲学等で議論されている程度です。

・古代哲学、例えば、エピクロス派では、肉体に痛みのない「アポニア」、心が乱されない「アタラクシア」等が理想とされました。また、肉体を健康にするのが医術であるように、魂を健康にするのが哲学だとされていました。

・また、医学の哲学では、分析哲学の概念分析手法を使って、「健康」という概念がどのように定義、または運用されているかの分析を通して、健康が議論されています。

・では、皆さんはどういう切り口で健康を扱ってみたいでしょうか?

●「消極」と「積極」

・先ほど、痛みがないのが「健康」という説を紹介して頂きましたが、私はもっと活力があるとか、丈夫であるとかが「健康である」ということではないかと思います。

・そこは論者によって議論が分かれるところです。エピクロス派のように苦痛がないことが健康という立場もあれば、仰るように、より元気であることを健康という立場もあります。

・ニーチェは確か、自分から苦痛や脅威を選ぶことができるのが健康の証であるみたいなことを言っていたと思います。

・出典は忘れましたが、そういう主張をニーチェがしていたと私も読んだ覚えがあります。

・ですから、「健康」を定義する際に、病気や苦痛がない、つまりプラス・マイナス・ゼロの状態を健康と考える消極的な立場が一方であります。他方で、活力に溢れているとか、過酷な環境に耐ええる強健さであるとか、病気や苦痛がないことを超えて、生命が活発な状態を健康と考える積極的な立場があります。

●「健康」の「基準」

・私はそもそも「健康」とは個人の主観でしか決められないと考えています。恐らく、万人に当てはまる健康の基準等というものは存在しないでしょう。

・私もそれに近い考えを持っていて、例えば、生まれつき病弱な人と、生まれつき頑健な人では、「自分が健康だ」と感じる基準は違うと思います。また、老化等によって体力が衰えることもありますから、同じ人でも「自分が健康だ」と感じる基準は変化していくのではないでしょうか?

・その論点は非常に重要だと思います。医学の哲学では、医学的検査で測定できる様々な数値を踏まえて、「健康の客観的基準」を決定するには、その生物種やある集団の統計的平均範囲を定めるしかないと考えています。

・集団を管理する立場ならば、それもやむを得ないと思いますが、個人の観点からすると、それを健康の基準と言われてもと思います。

●「衛生」と「養生」

・それと関連しますが、現在のコロナ下という状況に鑑みて、私は国家や共同体による国民に対する健康の管理の問題に興味があります。

・それは、公衆衛生という上からの健康管理や、フーコーが提示した「死を命じる権力」とは異なる「生かすための権力」、即ち「生権力」のような問題でしょうか?

・その通りです。国民の健康を維持するために、国家や共同体はどこまで私的領域に干渉が許されるのか、あるいは、個人はどこまでなら従うべきで、どこからなら抵抗しても良いのか等です。

・分かりました。ただ、公衆衛生や生権力が上からの管理だとして、自分で自分の健康を保つという自己配慮、所謂「養生」のような考え方もある訳ですが、その辺りも踏まえて、何か意見はあるでしょうか?

・私は、健康とは自律の問題であると考えていて、基本は「養生」のような自分自身による健康管理が主であるべきと考えます。勿論、伝染病のように、自分だけの健康で収まらず、他者に多大な影響がでるような場合は、国家による干渉はやむを得ないでしょう。

●「自由」と「公共」

・私も個人の「自由」は尊重すべきと考えていますが、自由という権利には、義務や責任が伴うとも考えています。例えば、ワクチンを打たないのは個人の自由ですが、その結果、コロナに掛かったとしたら、医療機関に掛かるなとまでは言いませんが、ワクチンを打った人を優先してくれと言って自分を後回しにする位の覚悟は持ってほしいと思います。

・それは、愚かな行為を選択する自由、所謂「愚行権」は認めるけれども、それによって他者の権利を侵害してはならないということでしょうか?

・難しい言葉は知らないけれど、今の日本のような民主主義の国家では、法律を決めるのも、それに基づいて役所が仕事をするのも、最終的には国民一人一人が責任を負うべきです。だから、法律や役所の決めたことが気に入らないからと言って、好きにしても良いということにはならない。気に入らないことがあるなら、決まりに基づいて法律その他を変えればいいだけでしょう。

・自分の体を配慮するように、不都合があれば、法律や習慣を適宜改善していくのが「健康な社会」ということですね。

・私も今の意見に賛成です。健康というのは、自律的な自己配慮と共同体全体の観点からの衛生管理の適切なバランスが必要であって、両者を対立するものとするのは違うと思います。

○今後の方針

・次回開催予定:3月19日(土)13:00~14:00

・次回テーマ:「反出生主義」とは?

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