第14回哲学カフェ活動報告 テーマ:「幸せ」とは?

○日時:2022年1月15日(土)13:00~14:30

○場所:「Cafe伊太利庵堺東店」

○参加者
淡野(40代男性)

Mさん(20代男性)

Tさん(30代男性)

ウルフさん(50代男性)

○テーマ:「幸せ」とは?

●「幸せ」を巡る議論

・哲学においては、「幸せ」ということについて、色々な切り口があるのですが、現代においては、大まかに3つの考え方に整理されると言われています。

・第一は、快楽説です。自分が快楽を感じる、あるいは不快を感じないのが幸福だという考え方です。この考え方は素朴かつ単純で、古くからある説得力のあるものです。

・第二は、欲求実現説です。それが快か不快かに関わらず、自分の望んだ事態が実現するのが幸福だという考え方です。この考え方も昔からある考え方ですが、経済学における「選好説」と結びつき、現在では強い影響力を持っています。

・第三は、客観的リスト説です。前の二つが本人にとってどうかという主観に関わるものだったのとは対照的に、健康や安全等、幸福は複数の客観的要素によって構成されるという考え方です。この考え方も伝統的に根強いものですが、リストの中身である複数の客観的要素の内容や数については一致した見解はありません。

・それでは、皆さんの見解を順番にお聞きしていきましょう。

●「幸せ」についての見解

・私の考えとしては、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」での幸福の定義とほぼ同意見です。アリストテレスは、生まれや資産、友情等の客観的要素だけでなく、主観的側面である理性的活動を重視しました。その意味で、哲学における幸福論は古代ギリシア以降、あまり特段の発展をしていないかもしれません。

・私の考えは、幸せは主観的なものだというものです。そして、逆説的な話になりますが、「幸福とは何か?」と問うた時点で、幸福ではなくなると思います。本人が幸福な時は、幸福かどうか等と自問したりはしないでしょうから。

・私の考えは、幸せは不快または苦痛のない状態というものです。ですから、本来は、波風の立たない平凡な生活こそが幸せだということです。ただし、人間は慣れる生き物なので、そのような平凡で安定した状態を、次第に苦痛に感じるようになっています。ですから、人間は幸せを感じるために、常に変化を強いられるということになります。

●「主観」と「客観」

・皆さんの見解を聞く限り、幸せについては主観の方が重要という理解でよろしいですか。

・その理解で問題ありません。

・客観的要素を完全に無視できるとまでは言いませんが、幸せかどうかの評価は主観によるものだと思います。

・逆にお聞きしたいのですが、哲学ではどういうものが客観的要素として挙げられているのでしょうか。

・これは論者によってバラバラというのが実際の所ですね。ただ、安全や健康、衣食住といった多くの論者が共通に指摘する最大公約数的な要素はあります。ただ、道徳性や信仰、知的能力、友情や愛情等、見解が分かれる要素も多く、現状では万人が一致できる客観的リストはありません。

●「充足」と「上昇」

・先ほどの苦痛のない安定に不満を感じるようになるという点についてですが、私はこれとヘーゲルが言う所の弁証法と同じ論理が働いているように感じます。ある一つの正に対して、それに対する反が生まれ、正と反の対立の中から合が出てきて、それが新たな正になるというように。

・ヘーゲルの弁証法と同じかどうかは分からないけれども、幸せというものが固定した状態ではなく、常に動いているものであるというのはその通りです。ある苦痛や不快から逃れるために行動して、それらがない幸せな状態になる。しかし、その幸せも長くは続かず、その安定した状態を苦痛や不快と感じるようになるという具合に。

・哲学ではそういう議論において、「充足」と「上昇」という対立があります。幸せになるためにはある状態で満足する、即ち「充足」が重要という立場が一つ。それに対して、幸せになるためには、常に向上を目指す必要がある、即ち「上昇」が重要という立場が一つ。勿論、この二つは理念型ですから、この二つを上手く均衡させるのが重要という折衷的な立場もあります。ちなみに、私はこの「充足」と「上昇」を個々人や状況に合わせてバランスさせる必要があるという立場です。

・私はどちらかと言うと「上昇」に近い考え方ですね。仙人や聖者みたいな達人ならともかく、我々のような凡人が安定した状態で満足したままでいられるとは思えないので。

・ただ、劣悪な環境に生まれて、周囲もそういう人々だとしたら、現状が当たり前で「上昇」しようとか思わないこともあると思います。

●「格差」と「意欲」

・そのような「格差」という状況について、「主観」と「客観」、「充足」と「上昇」で意見が分かれるところです。例えば、客観的に見て、劣悪な状況でも、本人が主観としては満足している場合、それは幸福なのか不幸なのかという風に。

・私は幸福かどうかについては、やはり主観によるものが基本だと考えます。それを階級と呼ぶか階層と呼ぶかはともかく、昔から人間の社会は上下に幾つかの集団に分かれて、それぞれが自分たちの暮らしを当たり前だと思ってきた訳ですから。下を見て、自分たちはあれよりはマシだと思い、上を見て、羨ましいと思って努力する人も居れば、別社会と諦めて現状を受け入れる人も居るというのが普通でしょう。

・その意味では、現代にSNSが出来て、簡単に違う社会を垣間見えるようになったというのは問題が大きいと思います。以前よりも、容易に自分たちとは違う人たちを見ることができるようになって、より嫉妬しやすい状況が増えたという具合に。

・SNSのような情報技術の発達やグローバル化に伴う移動の簡便化は、自分たちと異なる社会を見やすくなったとは言えるでしょう。ただ、それがそのまま嫉妬や上昇への意欲に結びつくとは限らないと思います。余りにも隔絶した天才を見ても嫉妬心は湧かないし、別世界過ぎる社会や人たちを見ても、自分もそうなりたいとは思えないかと。

・嫉妬するにしても、「自分もそうなれるかもしれない」というような類似性や可能性を感じないと、そもそも上昇への意欲が湧かないということでしょうか。

・その通りです。

●雑談:「格差」と「社会変動」

・私の知り合いの中国人に聞いた話だと、普通の中国人は別に自由も民主化も求めてないそうです。普通の人間にとって、衣食住が満たされていれば、政治がどうのとか興味ないですから。

・それには二つの要因があると思います。一つは、今までは人口動態と改革開放路線で中国の経済成長が続き、多くの中国人の生活が実際に向上したということ。もう一つは、SNSを含めた情報統制が徹底しており、多くの中国人は自由とか民主制とかをほとんど知らないこと。この二つが維持される間は、多くの中国人が不満を持つことはないでしょう。

・私が聞いた話だと、社会階層というものは、富裕層1.5、中間層7、貧困層1.5位の割合だと安定するそうです。逆に、この中間層が減って、貧困層が2とか3とかに増えると、社会に混乱が起こり始めるらしいです。

・その意味では、今の日本は、中間層が減って、貧困層が増えだしている最中ですね。

・中国についても、人口増加は既に終わったし、経済成長も鈍り始めましたから、今後どうなるかは分からないですね。

○今後の方針

・次回開催予定:2月19日(土)13:00~14:00

・次回テーマ:「健康」とは?

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