第9回哲学カフェ活動報告 テーマ:「哲学的ゾンビ」とは?

○日時:2021年7月17日(土)13:00~14:30

○場所:「Cafe伊太利庵堺東店」

○参加者
淡野(40代男性)

Mさん(20代男性)

Kさん(30代女性)

Tさん(30代男性)

ウルフさん(50代男性)

○テーマ:「哲学的ゾンビ」とは?

●「哲学的ゾンビ」を巡る議論

・デカルト以降、観念論や唯物論等の心と体、精神と物質の関係について、一方を他方へ還元するような議論がなされてきた。

・現代においては科学技術の発展の影響もあり、物質にすべてを還元する議論が優勢な傾向にある。

・「哲学的ゾンビ」という思考実験は、人間の心を脳という物質に還元する議論への反論として試みられたが、心を巡る議論は未だに決着は着いていない。

●心の在り方

・古代においては、魂のような、心を体や物質から独立して存在する「実体」と見なす考え方が優勢だった。しかし、現代では、逆に心は脳に依存するプログラムのようなものとみなす考え方が優勢。

・私は「心がある」とは考えているが、脳や他者との関係に依存せずに存在し続けられる独立した存在とは考えていない。

・私は伝統的な「魂がある」という考え方も有用性があると考えている。物や自然にも魂が宿るという考え方は、自然に物や環境を尊重するという機能があるだろうから。

・「心」は何らかの対象というよりは、思考や感情等の現象を分類するための「カテゴリー」のようなものだと考えている。

・「心がある」とは、「思考や感情がある」と同じような意味であって、脳や体に依存しないとか、心が独立に存在するとかが問題になるというのがよく分からない。

●アニミズムとフランケンシュタイン・コンプレックス

・「心が独立に存在する」という考え方は、「人間にのみ完全な魂が存在する」というような宗教的世界観を前提にしないと出てこない考え方。キリスト教のような「神の似姿としての人間」や「死後の審判」のような考え方が文化としてないと馴染みにくい。

・日本では付喪神や様々な神々といったアニミズム的な文化があるので、キリスト教的な絶対神を前提とする文化とは考え方も感覚も違う。「魂の独立性」は「絶対神と人間の関係」のような発想からしか出てこないように思う。

・「ブレードランナー」という映画で「レプリカント」という人造人間が出てくるが、日本人の感覚だと、彼らにも心があるし、魂が宿っても不思議ではないと感じるのが普通。欧米の人々のように不気味さとか、自分が人間ではないかもしれない不安とかを深刻に感じていない気がする。

・日本では、鉄腕アトムやドラえもんに代表されるように、ロボットは親しみの対象。それに対して、欧米では「ターミネーター」に代表されるように、「ロボットによる人類に対する反乱や支配の恐怖」みたいな感覚は普通にあり、「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼ばれている。

●人工知能とチューリング・テスト

・私はロボットに親しみも恐怖も感じないが、「ロボットにも心がある」と言われると、違和感がある。人工知能もロボットも、人間がそのように設計してプログラムしただけとしか思えない。

・現在の技術では、ロボットや人工知能に心があるとは言えないのは認めるが、将来的には「心がある」と言わざるを得なくなるように思う。ロボットやAIが学習したり、自己改造できたりするようになれば、どんどん人間に近づいていくのではないか。

・相手が人間かロボットか分からないようにした上で、人間が会話してみて、相手が人間かロボットか判定する「チューリング・テスト」という思考実験もある。「相手に心があるように人間が感じること」と「相手に心があること」を同じと見なして良いかという問いだが、私は程度の差として扱ってよいと考えている。

●身体性とフレーム問題

・人間とロボットや人工知能が程度の差というのは納得できない。人間には欲望や感情があるし、何より死んでしまう。ロボットや人工知能には欲望も感情もないし、何より死なないので、根本的に違うものだと思う。

・ロボットや人工知能であっても、動力や演算資源のような「存続に必要なもの」を設定することで人間と機能的に等価な制限を与えることはできるのではないか?

・欲望や感情という志向性や優先順位といった問題は、ロボット工学や人工知能研究でも議論されている。複雑な状況における判断をする場合、志向性に基づいた優先順位を決める枠組がないと、適切な判断ができないという「フレーム問題」だ。

・人間であっても、欲望や感情、死という限定があるからこそ有意味な認知や判断ができるという「身体性」を巡る議論がある。

・心を「プログラム」や「思考」のようなものと見なす考え方、ある種の「計算」に還元する発想は問題が多いということには同意する。しかし、現状では無理ということと、将来に渡って不可能ということとは違うと思う。私は十分に科学技術が発達し、現実の社会や仮想現実において、人間とロボットや人工知能が複雑に相互作用することが当たり前になれば、ロボットや人工知能にも心が生まれると考えている。

●技術的特異点とトランス・ヒューマニズム

・ロボットや人工知能にも「心が生まれる」というが、それは「心のようなもの」であって、心そのものではないという疑念が拭えない。

・「心の起源」を云々するのは不毛に思える。「心が生まれる」にしろ、「魂が宿る」にしろ、何らかの宗教を前提に、「魂と人間の特権性」に由来する発想だと感じるからだ。人間が生み出したロボットや人工知能が、そのまま何百年。何千年とかけて改良と発展を続けることと、生命が進化を繰り返してきたことと、本質的に違いがあるとは思えない。

・人間の脳や意識についての知見が発展すれば、人間の意識を丸ごと機械に移植する「意識のアップロード」も可能になると言われている。また、自己複製・自己進化を可能にする人工知能やロボットが生まれれば、人為と自然の境界はどんどん曖昧になっていく。何より、人間を生物学的・機械工学的に強化するヒューマン・エンハンス技術の果てに、全身義体化した人間や有機素材のロボットが当たり前になれば、「人間」や「心」の定義も揺らいでしまうように思う。

・次回開催予定:8月21日(土)13:00~14:00

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