第6回哲学カフェ活動報告 テーマ:「読む」とは?

○日時:2021年4月17日(土)13:00~15:00

○場所:「喫茶店スイス」本店

○参加者
淡野(40代男性)

Mさん(20代男性)

Tさん(30代男性)

ウルフさん(50代男性)

○テーマ:「読む」とは?

●「読む」の定義

・テキスト等の対象から情報を読み取ること。

・テキスト等を介して意図や表現内容を読み取ること。

・テキスト等を介して「共有可能なもの」と「共有不可能なもの」を理解し、自己を陶冶すること。

●能動と受動

・「読む」と「詠む」という日本語の同音異義語に代表されるように、ある意味では「読む」=「詠む」であり、「読むこと」と「書くこと」は不可分ではないか。

・言語であれ、他の表現であれ、「私的なもの」を完全に表現することも伝達することもできない。しかし、矛盾するようだが、その「私的なものの伝達/共有不可能性」を表現することが重要。

●個人と公共

・「私的なもの」と「公的なもの」、あるいは「共有不可能なもの」と「共有可能なもの」の鬩ぎあいの直中にこそ「読む」=「詠む」という営みが為される意義があるのではないか。

・感覚的な話になるが、「他の人と同じこと」を「丸み」、「自分独自のこと」を「尖り」という風に私は分類している。「尖り」を減らして「丸み」を増やすことが「大人になる」ことと言える。

・その「尖り」と「丸み」は、「個人性」と「公共性」、あるいは「分離」と「統合」という方向性と解釈できるし、哲学や思想において、ある種の理念的な両極と言えると考える。

・古代哲学においては、正にその「丸み」を目指すことが「徳」と考えられた。一方で、近代ではその「尖り」を尊重することが大事と考えられるようになったのではないか。

●知性と感性

・同じテキストを巡っても、読み取れるものは違う。情報や論理を読み取るのと、個人的なトラウマや詩情を読み取るのを同じとは考えられない。

・知性による理解と感性による共感は、概念としては区別すべきではないか。論理を読み取るのと情感を読み取るのとは異なると考える。

・理屈ではそうかもしれないが、実際に読み取る時にその両者を綺麗に分けることはできるのか。多くの人にとって「分かる」や「腑に落ちる」という経験は、それらが入り混じっているのが普通である。

○雑談

・私が考える哲学の根本命題は、「生と死」である。「命を奪わない」、「他者を傷つけない」ということ。ここから「命の平等性」のような一般化可能な原則が導出できると考えているし、そのようなものがこれから生まれることを期待したい。

・「他者危害排除の原則」を拡張して、「動物の福祉」や「動物の権利」を論じることは不可能ではないが、そこにはある種の論理飛躍があると考えている。何故なら、「汝殺すなかれ」という「同胞に対する道徳」から導かれる原理を、「命一般に拡張する」ことは論理階梯が違うもの無理やり同じに扱っていると感じるからだ。

・その「論理階梯の違い」という主張が上手く理解できない。あるいは納得できないと言ってもいい。「他者を傷つけない」という原理をそのような論理で否定することに同意できないし、「私と他の命は同じだ」という私の直観をその主張では覆せないと感じるからだ。

・「命の平等性」と言うと大げさになるので、それを「命を奪うことの躊躇い」と呼ぶなら、それは誰にでも共感できるものではないか。「命を奪うことの躊躇いに蓋をすること」で、人は命を奪うことができるようになる。人間だけでなく、動物ですら、「自分で命を奪う」ならば「躊躇いを感じる」のは自然なことだからだ。ただし、その躊躇いにも差異はあるように思う。人間や動物を殺すことに躊躇いを感じる人は多いが、虫を殺すことに躊躇いをほとんど感じない人もいるからだ。

・「命を奪うことの躊躇い」という言い方は納得できる。殺される側は、どのような論理を提示されても、自分が殺されることには納得しないだろう。そういう意味で「命は同じ」だと主張したい。

・その「命は同じ」という主張に異議を唱えたい。論理であれ、共感であれ、「同じと見なす範囲」は個人によっても文化によっても違うからだ。むしろ、「同じと見なす範囲を命一般に拡張すること」が誰にでも可能だとは考えないし、「同じと見なす」ことを可能にする「人間の共感能力」には個人差や限界があるだろう。

○今後の方針

・次回開催予定:5月15日(土)13:00~14:00

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