第4回哲学カフェ活動報告 テーマ:「知る」とは?

○日時:2021年2月13日(土)13:00~14:00

○場所:オンライン開催(LINEグループ通話)

○参加者
淡野(40代男性)

Mさん(20代男性)

Kさん(30代女性)

ウルフさん(50代男性)

○テーマ:「知る」とは?

●「知る」の哲学的背景

・「知恵を愛する」=「哲学」であることから、「知る」ことは哲学の大きなテーマ。

・西洋哲学の伝統では「真理論」あるいは「認識論」と呼ばれていた。

・人間の不完全な知識を「ドクサ」、神々の完全な知識を「エピステーメー」と呼び分けるなど、知識にも種類があると考えられていた。

○テーマ:「知る」とは?

●「知る」の哲学的背景

・「知恵を愛する」=「哲学」であることから、「知る」ことは哲学の大きなテーマ。

・西洋哲学の伝統では「真理論」あるいは「認識論」と呼ばれていた。

・人間の不完全な知識を「ドクサ」、神々の完全な知識を「エピステーメー」と呼び分けるなど、知識にも種類があると考えられていた。

●「知る」の種類

・イギリスの哲学者ギルバート・ライルの分類では、“Knowing what”(理屈を知っている)と”Knowing how”(やり方を知っている≒できる)という二つに大別する。

・「知識」という言葉にあるように、頭で知っているのが「知る」で、体全体で知っているのが「識る」。

・「知る」という言葉は、見た/聞いたことがあること等も含めた軽いもの。

・「識る」というような場合は、習得とか、もっと重い言葉になると考える。

●「知る」の深度と関係

・「知る」に種類があるとしたら、それらはどのように区別できるか。また、それらはどのように関係しているか。

・同じものを見ても、それぞれの人の知識や経験等によって気づくことも分かることも違う。何を受け取るかはその人次第。

・「知る」にも、段階や深度のようなものがあると思う。外国語を見たり聞いたりする場合、外国語と分かる、音や文字を単語と分かる、簡単な文が分かる、意味のまとまりが分かる、発話や文章全体の意味が分かる、発言や文章の意図が分かる、のように。

・それらに違いがあることは認めるが、明確な階層や境界は引けないと思う。なだらかなスロープのように、緩やかに繋がっているのではないか。

●本質はあるか?

・西洋哲学の伝統では、認識論や真理論という議論で、対象の本質と人間の認識が一致することを真理としてきた。このような「本質」のようなものはあると思うか。

・知識や認識は、人間が必要に応じて作り出す道具のようなもので、「本質」のようなものがあるとは思えない。むしろ、そのようなものがあると設定すると、認識したものが真に本質がどうかなど確かめられない不毛な議論になるだけではないか。

・歴史や自然を見ると、繰り返される共通のパターンのようなものがあることまでは言えるが、それが「本質」と呼べるような不変で絶対的なものがあると言えるとは思えない。

・理屈では、そのような「本質」のようなものがないとは分かるが、感覚としてそのようなものがあると感じてしまうということはあると思う。例えば、ただの石や木でしかない仏像やただの場所でしかない神社や寺院に言葉で上手く表せない何かを感じるように。

・そういう「何か」を感じるのは、人間が「未知なもの」に恐怖や不安を感じるからだと思う。そして、そのような恐怖や不安に対処するために、何か「絶対的なもの」を求めるのが人間の性質ではないか。

・そのような「絶対的なもの」を求める性質や傾向と、あらゆる物事に「本質」のようなものを求める性質や傾向は同じ。知識や言葉はあくまでも、他者と協同したり、情報を共有したりするための道具でしかない。

○雑談

・西洋哲学における「絶対的なもの」や「本質」を求める指向性は、キリスト教の影響が強いのは間違いないと思う。その意味で、西洋哲学の議論や概念の一部は、現代の日本人からすると今一つ分かり難いものも多い。

・「絶対的なもの」への指向性と仏像や聖域に対する畏怖は関連する人間の性質だが、何にそのような感覚を抱くかは文化や宗教の影響を大きく受ける。実際、普通の日本人に道端のお地蔵様を蹴ったり壊したりすることは何となく嫌な感じを引き起こす。しかし、原理主義的なキリスト教やイスラム教の信者にとって、お地蔵さまは悪魔の偶像でしかないのでそのような行為に良心の呵責を感じないどころか、正しい信仰の証として奨励される場合さえある。

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